織・小林愛子展@ギャラリーおかりや
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生誕130年記念
北川民次 メキシコから日本へ
世田谷美術館
11/17まで
北川民次は、画家として、また児童への美術教育の実践者として知られている。
北川民次の生誕130年を記念する展覧会が現在世田谷美術館で開催中。
北川は、1894年、静岡県の現在の島田市に生まれ、早稲田大学を中途退学し、米国在住の実兄を頼って、米国に渡り、1919年にThe Art Students League of New York(1875年創設)に入学する。同校の卒業生には、イサム・ノグチ、マン・レイ、ジョージア・オキーフ等がいる。高村光太郎をはじめとする日本人も同校で学んでいる。
北川はキューバを経由して、1923年にメキシコに渡ると、サン・カルロス美術学校(メキシコ国立美術学校)に入学しその課程を修了する。
当時のメキシコはホセ・バスコンセロス文部大臣の文化政策のもとで、先住民のこどもの為の美術教育を行う目的で「野外美術学校」が創設された。記録によると4校が開校され、北川はこの「野外美術学校」の教師となり、のちに校長も務めている。
北川はメキシコ在住時代に、ラテンアメリカを旅していた藤田嗣治と1932年に出会っている。北川は帰国後その藤田から二科会に誘われ、藤田の推薦を受け、北川は会員となっている。北川の初個展は銀座の日動画廊で行われた。
しかし、藤田との仲は、戦争画に進む藤田を北川は好ましく思わず、関係は薄れていったという。戦後、北川は安保闘争や公害問題などの社会問題を主題とする政治的な作品を多く制作している。
その後、二科会会長の東郷青児の死去に伴い、1978年同会の会長に就任するが、同年に会長を辞任し、翌年二科会を脱退している。
北川がメキシコで野外美術学校の教師をしていた頃に話を戻す。メキシコのこどもたちが描いた絵を、藤田嗣治に日本に持ち帰ってもらい、東京・日本橋にあった百貨店の白木屋(戦後、東急百貨店となるが、その後東急日本橋店は閉店している。)において、メキシコのこどもたちの児童画展を開催している。その開催にあたっては、久保貞治郎(栃木県出身、1909-1996)の協力があった。小中学生を対象とした創造主義美術教育運動の指導者の久保は、美術評論家、アートコレクターであり、跡見学園短期大学学長、町田市立国際版画美術館初代館長を務めた。
1952年に、こどもの創造力と個性を伸ばすと いう教育目標のもとに結集した、美術教育家や画家、 学者などによって創立された「創造美育協会」における「理論的な支柱」を担った のが久保貞次郎だった。
久保は、《子どもが「幸福」 になるためには「創造的」に生きることが必要であり、それは「抑圧」を取り除かれ「自由」な状態で 絵を描くことによって可能になる》(「久保貞次郎 美術教育論集、児童美術教育の方向」創風社 2007年)と説いている。北川は、この久保とは、瑛九を通じて知り合った。
本展「北川民次 メキシコから日本へ」のトークイベント「戦後日本の美術教育と北川民次」に登壇された穴澤秀隆氏によると、戦後、美術教育の流れとしては、こどもの創造力と個性を伸ばすという精神の解放や児童中心主義とした創造主義美術教育運動・創造美育協会(以下、創美)が先行し、そのあと、創美には図工・美術教育としての指導の目標や指針が不明瞭ではないかと指摘した「新しい絵の会」が設立されている。
以下、穴澤秀隆氏のトーク内容と穴澤氏の著作からの引用で稿をすすめる。
*穴澤秀隆
雑誌「美育文化」元編集長
NPO法人市民の芸術活動推進委員会理事
「新しい絵の会」が実践した児童画には、日常の細部にまで行き届いた眼差しがあった。しかし、開放的で発散的な表現を重視する「創美」には、「新しい絵の会」のその眼差しが不足していた。
「新しい絵の会」は教科の内容を整理し、こどもの発達に照応した系統的な指導を確立することを主張したが、「創美」は表現方法をこどもの自由に委ねるという姿勢を重視している。
上記の二つの流れ(新しい絵の会と創美)のほかに、絵画のみならず、立体造形や建築、写真・映画等の映像文化なども造形教育として扱うべきと主張する「造形教育センター」という組織が創設された。
戦後美術教育はこの三極構造(創造美術協会、新しい絵の会、造形教育センター)が1950年代半ばに完成した。この三極、とりわけ二極(新しい絵の会、造形教育センター)は、東西冷戦構造における民主的教育の擁護であったり、国家的な要請に基づいたり(デザイン教育の面で)、戦後の政治と経済のそれぞれの断面に接触していくなかで変遷を辿ってきた。
北川民次の話に戻ると、北川はメキシコから帰国後、1949年の夏と1950年の夏に、名古屋市の東山動物園の園内に、名古屋動物園美術学校を開校している。参加した34名の小中学生には、アラビアゴムと顔料を練り合わせた手製のグワッシュと黄ボール紙が北川から渡 された。本展では参加したこどもたちの実作の一部が展示されている。映像でも絵が紹介されている。参加したこどもたちのなかに、世界的に知られている荒川修作(1936-2010年)がいた。この間、北川は、『絵を描くこどもたち』(1952年)、『子どもの絵と教育』(1953年)の著作を残している。
1986年北川92歳の時、メキシコ政府から同国との友好関係に貢献した外国人に贈られる「アギラ・アステカ勲章」を受章する。1989年95歳で死去。
北川民次 メキシコ風景(トラルパムへの道)
1926年 油彩/キャンバス 69.8×79.3 cm 岡崎市美術館
北川民次 トラルパム霊園のお祭り
1930年 油彩/キャンバス 99.5×89.5 cm 名古屋市美術館
北川民次 ランチェロの唄
1938年 テンペラ/紙 161.5×130.0 cm 東京国立近代美術館
北川民次 〔出征兵士〕
1944年 油彩/キャンバス 78.5×63.0 cm 東京都現代美術館
北川民次 メキシコ三童女
1937年 油彩/キャンバス 65.2×80.3 cm 愛知県美術館
北川民次 タスコの祭
1937年 テンペラ/キャンバス 178.1×267.0 cm 静岡県立美術館
北川民次 メキシコ戦後の図
1938年 テンペラ/キャンバス 181.2×273.5 cm 宮城県美術館
北川民次 いなごの群れ
1959年 油彩/キャンバス 163.5×132.0 cm 名古屋市美術館
北川民次 メキシコ静物
1938年 テンペラ/キャンバス 112.5×162.1 cm 東京国立近代美術
北川民次 都会風景
1937年 グワッシュ/紙 50.0×67.0 cm 個人蔵
北川民次 ロバ
1928年 油彩/キャンバス 99.0×89.0 cm 愛媛県美術館
北川民次 夏の宿題
1970年 油彩/キャンバス 130.3×162.0 cm 愛知県美術館
名古屋動物園児童美術学校 児童画 1949–50年 個人蔵(高森俊)
名古屋動物園児童美術学校 児童画 1949–50年 個人蔵(高森俊)
名古屋動物園児童美術学校 児童画 1949–50年 個人蔵(高森俊)
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木下佳通代(1939-1994)は、1970年代の写真を用いた幾何学的な表現の評価や研究が注目されて、1980年代以降の抽象絵画などの総合的な検証がなされていない中で、この展覧会では、木下の作家の軌跡を辿り、再考する。
京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)西洋画科在学中に制作された油彩「不詳/む76」(1960年/The State of Kazuyo Kinoshita)から本展の展示が始まる。
木下佳通代は、大学在学中に哲学や美術教育(中学校で美術の教職に就いている)の講義を受けていたことが、木下が残したノートから知ることができる。木下が受講した哲学の教授、久松真一は、西田幾太郎に師事し、鈴木大拙などに影響を受けた哲学者だった。木下は、「存在」についての関心を深めることになる。
一見一つの作品に見える写真は、実は、2枚の同じ写真を横に並べ合わせているだけなのだが、一つ気がつくのは右側にチョークらしきもので、壁の汚れか何かを丸く囲っている。そのマーキングで起きる幻覚によって、2枚の組み写真ではなく、一点の作品にたらしめる。
マーキングは動物が尿を木や岩や建造物にかけることで縄張りやその存在を示すことが知られている。
と同じようにとはいささか乱暴ながら、木下の「存在」に対する意識もこのマーキングに反映されているのだろうか。
木下佳通代
Untitled-b/む103《壁のシミ(ブロック)》1972
没後30年 木下佳通代展
埼玉県立近代美術館
2025年1月13日まで
撮影はプレス内覧会にて
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